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第354回

2017.07.21

毛利家170721守刀掛2017斉元写真は、守刀を掛ける「刀掛(かたなかけ)」です。全体には漆が黒々と塗られ、天板や側面には金と銀で輪違いの文様が地文様として描かれ、高々と盛り上げた金銀の高蒔絵で鶴や梅などの、いわゆるめでたい文様が描かれた豪華な品です。

 

納箱の記述から、この「守刀掛」は、十一代将軍徳川家斉の正室広大院が、長州(萩)藩の十代藩主毛利斉煕(なりひろ)に与えたものだと分かります。斉煕の実子であり、後に長州藩の十二代藩主となる斉広(なりとお)に、家斉の娘和姫(かずひめ)が嫁いだことから、その縁を祝って贈られたもののようです。

 

関ヶ原の戦いで徳川氏に敵対した毛利氏にとって、徳川氏との関係修復は急務でした。家康の孫娘である喜佐姫(きさひめ)を初代藩主毛利秀就(ひでなり)の室に迎えたのは、関係修復の象徴的な出来事でした。以後しばらく、喜佐姫の実家越前松平氏との関係が続きますが、体制が安定するとともに、江戸時代中期にはその縁も薄らいでいたようです。

 

当時「規模」と呼ばれる、家格や栄誉の上昇・拡大を目指した、七代藩主毛利重就(しげたか)は、嫡男治親の室に、将軍徳川吉宗の孫娘を迎えることに成功しました。重就の孫として、長州藩主の座についた斉煕もまた、重就に倣って、「規模」の拡大・上昇を目指し、遂に将軍の実子である和姫を嫡男斉広の嫁として迎えることに成功したのです。

 

その結果、斉煕・斉元が続けて少将に任じられるとともに、将軍の聟となった斉広は、これまでの毛利氏歴代の中で、最も若くして少将に任じられました。斉煕の目論見は見事果たされましたが、この婚姻に要した費用は、並大抵ではありませんでした。藩財政への悪影響は避けられず、結果としてその負担は領民・家臣に転化されました。ただ、こうした大きな犠牲を払ってもなお「規模」の拡大をめざす具体的な理由については、今ひとつはっきりしません。