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第353回

2017.07.14

mt毛利家170714葛飾邸絵図写真は、「葛飾(かつしか)邸」の絵図です。「葛飾邸」とは、江戸時代の後期に、長州(萩)藩の十代藩主であった毛利斉煕(なりひろ)が、藩主を退き、隠退した後に暮らした御殿です。

 

『もりのしげり』によると、江戸の郊外、砂村神田の地に、十万坪を超える土地を購入し、建てられたものだそうです。この絵図からも、江戸湾に面した広大な土地に、水鳥を狩る「鴨場」を二つも設けた、豪勢な御殿であったことがわかります。中央の池には、「八ツ橋」や「浮御堂」などがあり、和歌や連歌に通じた斉煕の趣向を反映した御殿だったようです。

 

斉煕が、藩主を退き、隠居したいと願い出たのは、文政七年(一八二四)のことでした。幕府に届け出た願書によると、「痔痛」と「眩暈(めまい)」がひどく、歩行も長座もできないということだったようです。大名といえど、将軍から領知を与えられている以上、将軍に対する奉公を怠ることは許されないため、存命中に藩主の座を退くためには、こうした、健康上の理由など、奉公できない客観的な理由が必要だったようです。

 

健康不良を理由に引退し、従兄弟で娘婿の斉元に藩主の座を譲った斉煕でしたが、その後も江戸にとどまり、この「葛飾邸」で暮らし続けました。藩主斉元を「殿様」と呼ぶのに対して、隠居した斉煕は「大殿」と呼ばれました。田中誠二氏によると、この「大殿」斉煕には、独立した「葛飾御殿」だけでなく、専属の家老である「葛飾当役」を置き、専属の守衛兵である「葛飾番手」を置いていたといいます。また、天保三年(一八三二)の段階では、銀にして三一五貫目の予算が配当されていますが、これは藩主斉元の四分の三に相当する巨額なものでした。また、夫人の三津姫(みつひめ)には、藩主夫人と同額の七五貫目が支給されていました。

 

この「大殿」夫妻の生活ぶりが、藩財政にとって負担だったことはいうまでもありませんが、斉煕の目指した毛利家の家格上昇政策は、さらなる負担を藩に強いることになるのです。