山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第351回

2017.06.30

mt毛利家170630八江萩八景図巻写真は、長州(萩)藩の三代藩主毛利吉就(よしなり)が作らせた「八江萩八景図巻(やえはぎはっけいずかん)」です。古来中国の名勝とされ、日本人にもなじみの深かった「瀟湘(しょうしょう)八景」になぞらえて、萩の形勝地を選ばせ、絵と漢詩と和歌で表現したものです。

 

田中誠二氏によると、吉就の行った貞享(じょうきょう)検地は、いったん家臣団の給地をすべて藩に返上させて実施し、これまで以上に正確に丈量を行った後、給地を還付したそうです。その際、検地で生じた増石分は、一部を除き、藩がすべて収公したということです。

 

戦国期の毛利元就は、近隣の同格の国人(こくじん)領主である山内氏や三澤氏が、かつてそれぞれ隠居が多くの所領を抱えているにもかかわらず、ろくに現当主に力を貸さなかったこと、今も毛利氏のためになど、まともに兵を出しはしないと、長男の隆元に教えています。

 

内乱が続き、幕府や守護が全国的な検地を行うことができなかった室町時代、諸大名たちは、鎌倉期に作られた「大田文(図田帳)」に記載された情報をもとに、軍役等の諸役を課していました。情報が古いだけでなく、大名は、国人領主の戦功を賞し、さらなる奉公を引き出すため、しばしば軍役免除の対象地を増やしていきましたから、元就のころには、各地の国人領主たちが、実際にはどれほどの所領を有しているかは、ほとんど把握できなくなっていました。

 

したがって、大名と国人領主たちは、戦争ごとに、どれだけの兵を出すか、その都度協議して決めていました。国人たちは、元就の見立てどおり、家を保つため、常に余力を残そうとしていましたが、それをいかに供出させるかが、戦国の熾烈な戦いを勝ち抜く鍵となりました。

 

度重なる検地により、吉就の時代には、家臣団の余力は、ほぼすべて藩が吸収することに成功しました。吉就の文化事業を支えたのは、こうして得た力であったと思われますが、一方で余力をすべてはぎ取られた家臣たちは、窮乏にあえぐことになるのです。