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第350回

2017.06.23

a毛利170623(錆漆塗十八間四方白筋兜350号これは、長州(萩)藩の三代藩主毛利吉就(よしなり)所用の具足の兜です。前立(まえだて)とよばれる飾りに付けられた、毛利家の家紋が印象的です。枝菊の透かし彫りなどが、いたく技巧的になっているところは、江戸時代らしいところですが、総体としては古い形式を模したもので、毛利家の伝統を強く意識した、吉就の好みを示すものといえそうです。

 

田中誠二氏によると、吉就が実施した貞享検地の結果、藩の直轄地である蔵入地(くらいりち)は、本藩領全体の四四%から、七〇%へと飛躍的に拡大したといいます。関ヶ原以後も、家臣数があまり減らなかった長州藩は、他に比して、家臣に与える給領の比率が高く、藩財政の根幹をなす蔵入をいかに拡大するかは、輝元以降代々の課題であったようです。

 

そもそも毛利氏は、安芸国の吉田荘を本拠とする国人(こくじん)領主でした。南北朝以来の戦いに次ぐ戦いで、本拠吉田荘の一円支配に成功すると、機会を捉えては周辺地域を蚕食したり、主君となった大内氏からの給与で所領を拡大していきました。

 

その後、大内氏の討滅により、毛利氏は、一挙に五か国を領有する戦国大名へと転身します。しかし、この戦いは、毛利氏が独力でなしえたわけではなく、石見国の吉見氏や、同盟を結んでいた芸備両国の国人領主の協力が不可欠でした。そのため、毛利氏は、大内氏を滅ぼした後、赤間関などの重要拠点は、さすがに死守しますが、たとえば阿武郡は吉見氏に、椹野(ふしの)川下流の大荘園であった椹野荘は小早川隆景に与えるという具合に、多くの所領を味方の国人領主に給与したり、帰服した旧大内家臣に安堵せざるを得ませんでした。

 

その結果、戦国大名毛利氏といえど、後に蔵入地となる直轄領は、さほど広いものではありませんでした。その後の尼子氏や大友氏、織田信長との戦いも、戦い方は同様でしたから、毛利氏にとって、直轄領の拡大は、かれこれ百年にも及ぶ大きな課題だったといえます。