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第349回

2017.06.16

毛利家170616_花色腰格子縮熨斗目写真は、長州(萩)藩の五代藩主毛利吉元が、将軍徳川吉宗から拝領した「熨斗目(のしめ)」です。「熨斗目」とは、裃や大紋・素袍(すおう)の下に着用する、武士の礼服です。

 

箱書によると、これは参勤を終え、帰国の挨拶に出向いた吉元に、ねぎらいのために下されたものだそうです。通常、こうした時服は、帰国後、「上々様方」とよばれる、藩主の係累たちにすべて配ってしまうようですが、このときは、幕府が倹約のため、以後着物ではなく、反物での支給に切り替えるとしたため、記念の品として保存することにしたというのです。

 

吉元は、支藩の長府藩主毛利綱元の子として生まれましたが、宝永四年(一七〇七)に、嗣子がいなかった本藩主毛利吉広の養嗣子として、長州藩の五代藩主となりました。毛利輝元の次男就隆を祖とする、支藩徳山藩主毛利元次の方が、血統的にはより宗家に近かったためか、元次は吉元との確執を強めたといいます。

 

正徳五年(一七一五)、長州藩と徳山藩の境界、万役山(山口県周南市)において、松をめぐる小競り合いが生じました。長州藩は、徳山藩に謝罪を求めますが、元次が強硬な姿勢を崩しませんでした。業を煮やした長州藩主毛利吉元が、元次の隠居を幕府に求めたところ、惣庶の秩序を重んじた当時の幕府により、元次は配流、徳山藩は改易されるに至ったのです。

 

確かに、徳山藩は藩祖就隆以来、本藩からの自立を試み、事あるごとに対立する姿勢を見せていました。しかし、吉元としては、改易という重い処分までは想像していなかったようです。それもあり、徳山側の粘り強い再興運動を受けた吉元が、幕府に対し、徳山藩の再興を願い出たため、将軍吉宗治世の享保四年(一七一九)、徳山藩は再興されました。

 

これはあくまでも、毛利家内部の対立でしたが、自ら解決できず、幕府に持ち込むと、両者の思惑を越えた裁定が下されることもあり、大名にとって幕府との折衝は気を遣うものでした。