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第348回

2017.06.09

f-毛利家170609_柳に燕図写真は、長州(萩)藩の第三代藩主毛利吉就(よしなり)が自ら筆をとって描いた「柳に燕図」です。毛利博物館には、このほかにも、吉就筆の絵が残されていますが、それらを見ると、吉就は、狩野派の画技を学んでいたということです。

 

このほかにも吉就は、毛利家伝来の故実書の集成や、伝来の「幸若舞」の本を整理するなど、毛利家の文物整理に熱心だったようです。また、当時新来の宗派であった黄檗宗に帰依して、萩郊外に東光寺を建立したことでもよく知られるように、文化的な業績を多く残しています。

 

こうした吉就の文化的な事績は、父の二代藩主綱広までに、藩の体制がほぼ固まり、政治的な安定を確立したことによると思われます。しかし一方で、吉就の時代は、新たに財政的な諸問題への対処が課題とされた時代でもありました。

 

田中誠二氏によると、他藩に比して多くの家臣団を抱えていた長州藩は、そもそも藩財政の基盤が弱く、初代藩主以来度々、「仕組」とよばれる行財政改革を実施してきたといいます。改革の成果が現れ、一時的に財政の好転した時期もあったようですが、物価の上昇などに伴う江戸出費の増加などにより、借銀が膨れあがっていました。天和元年(一六八一)、以後の改革を宣言した綱広が隠居すると、翌天和二年(一六八二)、家督を継承して三代藩主に就任した吉就は、五年に及ぶ「仕組」に着手します。

 

この「仕組」は、家臣団の給地をすべて一度藩に収公させ、検地を行った後に改めて支給する、いわゆる貞享検地の実施によって完了しました。このときの増石分は、すべて藩の直轄地に繰り入れられたため、藩財政は著しく強化されたといいます。しかし、その反面、家臣団の財政基盤は弱まりました。その結果、特に江戸における支出の増大と、家臣団財政の逼迫が、次なる萩藩財政の課題として浮かび上がってくることになるのです。