山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第347回

2017.06.02

毛利家170602_毛利吉元像写真は、長州藩(萩藩)の五代藩主毛利吉元の肖像画です。吉元は、延宝五年(一六七七)支藩の長府藩主毛利綱元の子として生まれましたが、宝永四年(一七〇七)に、長州藩の四代藩主毛利吉広に後嗣がいなかったため、養子となり、長州藩を継いだ人物です。

 

吉元の治政は、享保十六年(一七三一)に、吉元が亡くなるまでの二十余年に及びます。『萩市史』などによると、この間吉元は、藩財政再建のため、さまざまな倹約策を実施したことや、人材育成のために藩校明倫館を創設したこと、藩士の家に伝わる古文書を集成した『閥閲録』の編さんを命じるなど、さまざまな施策を実施したことが知られています。

 

また、正徳五年(一七一五)に発生した「万役山事件」により、支藩主である徳山藩主毛利元次との対立を深めた吉元が、翌年、その処分を幕府に伺ったところ、幕府が徳山藩を改易するという事件が発生したことも、よく知られています。

 

吉元の時代は、毛利輝元・秀就父子が作り上げた長州藩の体制が、財政の面においても行き詰まりを見せた時代でした。また徳山藩の改易に見られるように、本支藩の関係においても、初代藩主秀就以来のきしみが、頂点に達した時期であったといえます。

 

吉元が藩政を主導した十八世紀前半には、幕府においても、徳川秀忠以来の徳川宗家が途絶え、紀州和歌山藩から将軍家を継承した吉宗が、幕府財政の立て直しを主眼とする、「享保の改革」を実施したことが、よく知られています。

 

この時期は、全国的にも、江戸時代初めに作られた様々なシステムが、問題を発生させ、改革を余儀なくされた時代だと考えられます。ただ長州藩において、吉元が行った様々な改革が、長州藩の歴史上どういう意義を有していたのか、全国的に見るとどう位置づけることができるかなど、本格的な研究は緒についたばかりのようです。