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第345回

2017.05.19

mt毛利家0519毛利元就像写真は、毛利元就の肖像画です。頭上に記された「賛(さん)」という、画像の人物を讃える文章によると、天正十九年(一五九一)に描かれたもののようです。現在では、元就の孫輝元が広島城に本拠を移転するにあたり、元就の菩提寺である洞春寺も移転させることになったため、それを機に描かれ、寺に納められたものだと考えられています。

 

教科書や図鑑・テレビなどでもおなじみの画像です。眼光の鋭さや、固く結んだ口元など、戦国の乱世を生き抜いた元就らしさがよく描かれた傑作だとされます。それだけでなく、少し薄くなった髪の毛や、顔に深く刻み込まれた皺など、老境に入った元就の姿を、ありのままに描いているのは、元就をよく知り、鮮明に記憶していたであろう輝元らが、元就に抱いていた印象を、この肖像画に強く反映させた結果であろうと思われます。

 

後年の輝元の述懐によれば、毛利家当主としての輝元に対する元就の教育は厳しく、輝元自身生きた心地がしなかったと述べています。本来であれば、輝元の教育は、実の父母である元就の長男隆元、その妻尾崎局が行うはずでした。この夫婦の間には、当時やりとりしていた書状が、今なお残されていますので、輝元の養育に関する夫妻の会話も聞こえてきます。

 

この時期の元就は、輝元の養育に関して、あまり口を差し挟んだ形跡はありません。「三子教訓状」の中で、「教訓状」のいわば有効期限は、実子である三兄弟が生きている間、と見越し、孫の代まではもたないだろうと言い切ったほど、冷静な判断のできる元就でしたから、孫の養育は、親である隆元と尾崎局が行うべきだと考えていたのかも知れません。

 

隆元の急死後、元就は、残された輝元の養育に、事細かに口出しするようになります。その煙たさには、輝元の母尾崎局も困惑しているほどですが、輝元を、一日でも早く毛利家の真の当主にしなくてはならない、元就の焦りがあったのかもしれません。