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第344回

2017.05.12

st毛利家170512三子教訓状写真は、毛利元就が長男隆元、次男元春、三男隆景に宛てた自筆の書状、いわゆる「三子教訓状」の前半部分です。

 

この書状は、防長両国で、大内氏旧臣や各地の地侍層が起こした「地下人一揆」を制圧した直後の弘治三年(一五五七)十一月に記されたものです。彼らの抵抗に手を焼くだけでなく、危機的な状況を理解しようとしない家臣たちに苛立ち、さらには、尼子氏や大友氏、村上水軍という新たな敵を抱えた元就が、これからのあるべき姿を、三人の子息に説いたのです。

 

元就の主張は、毛利家を継いでいた長男の隆元を中心に、吉川家を継いだ次男元春、小早川家を継いだ三男隆景を結束させ、三者結束の力をもって、毛利家だけでなく吉川・小早川両家をも維持する、というものでした。この毛利家当主を、吉川・小早川両家の当主が支える体制は、後に「毛利両川体制」と呼ばれますが、この体制の実態と、歴史的な評価は、実のところ、きちんと定まったものではありません。

 

少なくとも、隆元の生前は、三人の兄弟がそれぞれの家の当主として、その役割を全うすることを前提に、三者が「仲違いせず」毛利家のために協力すること、が求められる程度でした。

 

いわゆる「両川体制」が本領を発揮するのは、長男隆元に続き、元就が亡くなって以後のことです。「大殿」元就の死により、十九歳の当主輝元はすべてを決めなくてはならなくなりました。しかし、毛利家の当主とはいえ、経験不足の輝元に、どれだけの家臣・国衆が従うかは疑問でした。こうした状況に陥ることを見越した元就は、死期を悟った晩年、輝元を支える体制を新たに整えます。それが、元春・隆景に、譜代の重鎮福原貞俊・口羽通良を加えた、「御四人」と呼ばれる体制でした。信長・秀吉という難敵と渡り合い、毛利家を後世に存続させることに成功したのは、輝元と「御四人」による集団指導体制だったのです。