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第343回

2017.05.05

毛利家170505_343回_毛利隆元自画像写真は、毛利隆元の自画像とされる肖像画です。毛利元就の長男として生まれた隆元は、天文十五年(一五四六)、二十四歳の時に、元就から家督を譲られ、毛利家の当主となりました。以来、永禄六年(一五六三)に、安芸国佐々部(広島県安芸高田市)の陣中で急死するまでの十八年間、当主として毛利家を支えました。

 

この時期は、まさに、毛利家が、国人領主から戦国大名へと成長する時期であり、隆元の身の上には、家の存亡に関わるような大難題が、次から次へと降りかかっていました。幸い、初期には、老練な執権志道広良、全期間を通じては、隠居して「大殿」となった元就が健在でしたから、彼らが十分隆元を補佐できました。隆元もまた、彼らを頼りに政務や軍事に励んでいました。ただ、余りに元就の影響が強かったためか、総じて隆元の影は薄く、後世の人々には、すべてを元就が行ったかのごとき、誤った印象さえ伝えられています。

 

こうした懸念は、当時から存在したらしく、岸田裕之氏によると、政治・外交・信仰にわたって、元就・隆元に助言を与えることができた高僧策雲玄竜が、外聞もあることから、元就に対して隆元への口出しを控えるように意見したことが明らかにされています。

 

確かに、元就としては、隆元の経験不足や認識不足に、不満を抱くこともあったようです。しかし、陶晴賢との断交を強く訴えて、結局は元就をも動かしたのは、ほかならぬ隆元の粘りでした。また内では、嫡男の輝元と妹五竜局の娘との婚約をとりつけ、宍戸氏との姻戚関係を盤石にしたのも、交渉を進めたのは隆元自身でした。さらに外では、二正面の戦争を避け、尼子氏対策に全力を尽くすため、九州の大友氏との和睦をとりつけることに成功していました。成果を挙げ、九州から出雲の戦場に向かう途上、隆元は急死したのです。四十一歳という早すぎる死が、彼に対する評価を低いものとしているのは、とても残念な気がします。