山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第338回

2017.03.31

毛利家170331梨地鶴亀松桜蒔絵将棋盤yo写真は、毛利家伝来の将棋盤です。側面に金銀の蒔絵で松と桜、松の枝先には鶴が、根元には亀が描かれる、たいへんめでたい意匠の将棋盤です。

 

将棋は少なくとも平安時代には行われていたようですが、由来や伝来については、まだはっきりとはわかっていないようです。福井県一乗谷遺跡の朝倉館跡から発掘された将棋の駒がよく知られていますが、毛利氏の領内でも、広島県福山市の草戸千軒町遺跡で、将棋の駒が出土していますから、毛利元就の時代には、将棋は一般にも広まっていたようです。

 

元就の時期の毛利家の資料の中に、将棋を窺わせるようなものはありません。したがって、戦国期の毛利家で将棋がどのように扱われていたか、知ることはできません。ただ、将棋の流行は全国的なもののようで、江戸幕府が、早くから囲碁と将棋の名人に扶持を与え、その活動を支援していることや、先の草戸千軒町遺跡の事例から鑑みると、毛利氏の領内でも、元就の頃には、すでに将棋は流布していたことでしょう。

 

江戸時代になると、将棋盤は、碁盤・双六盤とあわせて「三面」「三面盤」と呼ばれ、婚礼道具になくてはならないものとされます。もともと囲碁は、古くから音楽や書画とともに「琴棋書画」「四芸」などと呼ばれ、士大夫にとって必須の教養とされていました。おそらく、将棋・双六も、貴族的な教養として、あわせて武家の婚礼に取り込まれたのでしょう。

 

十五世紀中葉、戦乱を避けた貴族たちは、大内氏を頼って次々と山口にやってきました。彼らは、同時に都の文化ももたらしたのでしょう。同じ頃、人質として山口に居た元就の長男隆元は、山口で絵を学んだとされ、現在も自筆とされる絵が幾つか残されています。元就はこうした隆元に、乱世を生き延びるために必要なことは「芸や能や慰み」ではなく、「武略・計略・調略」だと、厳しくたしなめています。果たして隆元は、将棋も嗜んだのでしょうか。