山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第336回

2017.03.17

mt毛利家0317洛中洛外図写真は、江戸時代初期の京都を描いた「洛中洛外図」の一部分です。写真の部分に描かれているのは、寛永三年(一六二六)に、上洛した徳川秀忠・家光父子に招かれた後水尾天皇夫妻が、二条城に向かう様子です。

 

幕末の将軍、徳川慶喜がこの二条城で、いわゆる大政奉還を宣言したことはよく知られています。二条城は、徳川家康が京都での宿所として築いた城ですが、実際に用いたのは、家康・秀忠・家光の最初の三代と、幕末の家茂・慶喜二代のみだったようです。家康は、大坂の陣でもこの二条城を拠点にしたといいます。また成長した豊臣秀頼との会見に、この二条城を利用したことはよく知られていますが、実際には、京都で暮らすことはほとんどなく、政務は、ほぼ京都南郊の伏見城でとっていたとされます。

 

伏見を政務の拠点としたのは、家康の前の天下人、豊臣秀吉も同様でした。当初秀吉は、京都市中に聚楽第を築くなど、積極的に京都の支配を試みたようですが、やがて淀川水系に接して、水陸交通の拠点であった伏見に城を築き、ここを政務の拠点としました。慶長三年(一五九八)に、秀吉が亡くなったのも、この伏見でした。

 

実質的に首都であった秀吉・家康時代の伏見には、諸大名が屋敷を構えていました。豊臣政権の下で、大老職を務めていた毛利輝元もまた、この伏見で秀吉死後の混乱した政局に巻き込まれていました。秀吉死没の翌年、家康に拮抗する実力者であった大老前田利家が亡くなると、石田三成ら秀吉子飼いの大名間で紛争が起こり、結局三成が失脚したことはよく知られています。このとき輝元が叔父の毛利元康に宛てた書状によると、三成や、彼と行動をともにした増田長盛・大谷吉継らは、輝元率いる毛利勢を利用しようとしたようですが、これを嫌った輝元は、政権のごたごたから遠ざかるため、伏見からの退去を模索したようです。