山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

お問い合わせはこちら

第335回

2017.03.10

mt毛利家0310黒塗沢瀉紋散蒔絵雛道具写真は、毛利家の雛道具です。雛道具は、雛人形とともにあつらえられる雛人形用の婚礼道具のことです。江戸時代の大名家の雛人形と雛道具には、姫君が自らの居室などで、私的に楽しむ「御内証の雛」と呼ばれる雛と、殿中の広間などに飾り、家臣とともに女子の健やかな成長を祝う「表道具」としての雛とがあったとされます。

 

この雛道具は、漆で黒く塗られたすべての道具に、子孫繁栄を意味する唐草文様と、毛利家の家紋である「沢瀉(おもだか)」が、金で蒔絵されていますので、おそらくは、「表道具」の雛道具だったのでしょう。写真だとわかりにくいですが、駕籠の前の「挟箱(はさみばこ)」は、幅が十五㎝ほどもある、堂々としたものです。

 

毛利博物館には、元治元年(一八六四)に作られた「御紋本」という本が残されています。この本は、藩主の衣服や調度を管理していたと思われる小納戸方に残されていた、藩主係累の衣服や調度に付されていた紋章の型紙や雛形を集めたもののようですが、それによると、「沢瀉」の形は、歴代の当主ごとに微妙に異なっていたようです。また、この本には、よく見慣れた「御当代(敬親)」「若殿様(元徳)」と注記のある「沢瀉」とは別に、「同(斉煕)公御幼年中」「兼之進様」「内蔵様」と注記のある、日ごろ我々が目にする「沢瀉」とは、一風変わったこれも「沢瀉」なのか、と首をひねりたくなるような「沢瀉」紋も載せられています。

 

斉煕は、もともとは部屋住みの身分から、兄斉房の死により急遽十代藩主となった人物です。兼之進は斉煕の従兄弟惟祺(これよし)、内蔵はその子で、敬親にとっては実の従兄弟にあたる親安(ちかやす)であり、ともに藩主の後継者である世子(せいし)にすらなれない、部屋住みの身でした。彼らの紋章がどのように使われたかは、確たる遺品が残されていないので、厳密なことはわかりませんが、少なくとも、藩主・世子とは、見た目にも厳然たる区分があったようです。