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第334回

2017.03.03

nt毛利家170303_黒塗沢瀉紋散蒔絵雛道具 写真は、毛利家伝来の雛道具です。この雛道具は、毛利家の婚礼道具を精巧に模して作られたとみえ、すべての地色を黒漆で統一し、金の蒔絵で子孫繁栄を象徴するという唐草文様を描き、ところどころに毛利家の家紋である「沢瀉(おもだか)」を金箔で蒔絵しています。

 

沢瀉とは、水辺に自生するクワイの仲間ですが、鏃(やじり)のようにとがった葉の形が武家にもてはやされ、江戸時代には「勝草」とよばれ、縁起のよい草花とされていました。一説によると、毛利元就が戦場に向かう際、道ばたに咲いていた沢瀉を見て、勝利を確信し、実際に勝利を得たことから、毛利家の家紋にされたといいます。

 

ただ、元就の遺物とされるもののうち、形式や様式から元就時代でまちがいないとされるもの、あるいは死後間もないとされるものに、「沢瀉」が用いられているものはありません。毛利博物館に残されている、毛利家伝来資料では、長州(萩)藩の初代藩主とされる毛利秀就の具足櫃や具足に記されている「沢瀉」が、最も古い家紋のようです。

 

また、江戸時代後半に、幕府に提出された家紋等の届書の控えによると、この「沢瀉」は、「御支封様」などとよばれ、親類とされていた、長府・徳山・清末の各毛利家の家紋としても届けられていました。一方、同じ「毛利」の苗字を名のりながらも、「年寄」すなわち家老とみなされた、右田毛利・厚狭毛利などの「一門」の家紋に、「沢瀉」は見られません。この「沢瀉」という家紋は、長州(萩)藩主毛利家とその親類のみの家紋であったと考えられます。

 

一方、「一に三つ星」の方は、もとは毛利一族であれば誰でも使用できたからでしょう、長井氏などのように、上の横棒を二に変えて家臣が使用する事例も見られました。こうした事実からは、「沢瀉」という家紋は、伝承とは異なり、元就ではなく、江戸時代になって、一門と親族が厳しく区別されるようになった時代に生み出された家紋だと考えざるをえません。