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第332回

2017.02.17

毛利家170217立雛図写真は、江戸時代後期の絵師松村景文が描いた「立雛図」です。男女一組の雛人形を描いた、素朴なところが、何とも愛らしい雛人形の絵です。

 

童謡などでは、男性の雛人形のことを「お内裏(だいり)さま」といいます。これはもともと、男女一組の夫婦雛を、天皇夫妻に見立てて「内裏雛」と名付けて売り出したことによるものだそうです。背景には、『源氏物語』など、王朝世界への憧れもあったようです。

 

幕末の長州(萩)藩主毛利敬親は、藩士に対して尊皇を鼓舞する際、毛利家が平城天皇の子孫であることを強調しています。現在毛利博物館に残されている、毛利元就自筆とされる系図でも、やはり祖先は平城天皇とされています。

 

毛利氏の祖は、京都から鎌倉へ下った公家の大江広元です。大江氏の祖は、土師連(はじのむらじ)という、天穂日命(あめのほひのみこと)を祖先と考える、古代以来の豪族でした。河内国(大阪府)を本拠とし、埴輪の焼成が氏名の由来とされたように、古墳造営など、卓越した技術力をもって、大王の葬送儀礼を司る豪族として、重要な役割を担っていました。

 

律令国家の成立とともに、王位継承の場としての古墳が作られなくなると、土師氏の地位は低下しました。危機感を抱いた土師氏の一部は、桓武天皇生母との縁を頼り、秋篠朝臣(あそん)・菅原朝臣・大枝(のちに大江)朝臣へと改氏姓を遂げました。

 

『新撰姓氏録』では、これら三氏は、「神別」とされ、土師宿禰(土師連から改姓)と同祖だとされています。大江氏が平城天皇の後裔とされたのは、その後と推測されますが、経緯については研究者の間でも見解が分かれているらしく、定かなことは分かりません。

 

元就の頃、大江氏は平城天皇の末裔と信じられていました。元就は、清和源氏・桓武平氏・藤原氏の子孫と称する国人領主に対抗すべく、この伝承を積極的に受け入れたようです。