山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第330回

2017.02.03

st毛利家170203芦屋釜写真は、古い茶釜です。胴に比べて口の部分がすぼまった鶴首(つるくび)の釜で、口廻りには雷文が彫り表されています。鐶付(かんつき)は遠山(とおやま)、底をつぎ直して、いわゆる尾垂(おだれ)としたもののようです。さらに、胴には、毛利家の家紋である「一に三つ星」が浮き出されていますので、毛利家が特に注文して作らせたものかもしれません。

 

表千家七世如心斎宗左の箱書によると、この釜は、古芦屋だとのことです。古芦屋隆盛の戦国時代、毛利元就の勢力は芦屋を含んだ北部九州にまで及んでいました。もともと豊前国(福岡・大分県)は、室町時代初頭以来、大内氏の領国でした。長門・豊前両国を押さえた大内氏は、関門海峡を両岸から支配することで、瀬戸内海と外洋との連絡を制して、西日本最強の大名に成長したのです。豊前国に接する芦屋は、遠賀川河口の港として、室町期に活況を呈していたとされますが、ここにも大内氏の支配が強く及んでいました。

 

大内氏の滅亡に際して、毛利氏と豊後国(大分県)の大友氏は、関門海峡を境に、大内氏旧領を分割することにしたようですが、歴史的に山口との関わりを深く持っていた、北部九州の国人領主たちは、毛利氏を頼り、大友氏を阻もうとしたようです。毛利氏もまた、関門海峡を扼して、大内氏の経済基盤を継承すべく、この地域の国人領主たちの支援に乗り出しました。

 

永禄初年(一五五〇年代末)に、この両勢力は、門司を含む企救半島(北九州市)の支配権をめぐって、激しく争いました。基本的には、村上水軍の支援を得、水軍力に勝る毛利氏が、終始優勢に戦いを進めたようです。劣勢を巻き返すため、大友義鎮(宗麟)は、室町幕府に九州探題への補任を求め、村上水軍や尼子氏と結ぶなど、外交による巻き返しを図りました。義鎮の毛利氏包囲網は、さすがの毛利元就をしても、なかなか破ることができず、元就の死後もなお、毛利氏を苦しめることになるのです。