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第329回

2017.01.27

毛利家161216半5_2写真は、徳山出身の絵師大庭学僊が描いた「獅子舞図」です。北川央氏によると、獅子舞だけでなく、放下などの曲芸師や、「大神宮」と書かれた、神社をかたどった輿などが描かれていますので、描かれているのは、正確には「伊勢太神楽(いせだいかぐら)」なのだそうです。

 

「伊勢太神楽」とは、諸国に伊勢神宮のお札を配り、伊勢神宮の信仰を広める伊勢神宮の神人たちが演じる神楽のことです。神楽の本義からすると、もともとは神を喜ばせるための神事だったようですが、学僊がこの絵を描いた頃には、諸国で伊勢の教えを広めるために、衆目を集め、愉しませるための芸能に転化していたと思われます。

 

毛利元就らが活躍した戦国時代、伊勢神宮などの諸社は、戦乱や武士の台頭によって、社領を失い、自ら信者を求め、諸国に布教者を派遣して、信仰を広めていました。彼らは、「御師(おし・おんし)」と呼ばれ、「檀那(だんな)」と呼ばれる信者と「師壇契約」を結び、彼らの信仰を助けるために、定期的に諸国を回っていました。具体的には、契約を交わした檀那たちから、寄付を集めて、札を配り、遠方から参詣する場合には、その便宜を図り、宿舎も用意するなど、神社と信者をつなぐ、重要な役割を果たしていたのです。

 

毛利氏の場合、村山氏という伊勢の御師が、領内を巡回した記録が残されています。それを見る限りでは、実に細々と、大小さまざまな家臣や女性たちが、檀那として契約を交わしていたことがわかります。また、大名の側でも、たとえば薩摩の島津家久が、天正三年(一五七五)に、伊勢参詣のため、毛利氏の領内を通過するなど、直接伊勢に詣でることもあったようです。家久の日記には、当時の毛利領国の様子がつぶさに記されています。

 

戦乱にあけくれた戦国期の御師にとって、諸国の旅は危険を伴ったでしょう。対照的に、学僊が描いた「伊勢太神楽」は、曲芸を愉しみ、泰平を謳歌する和やかな様子が描かれています。