山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第327回

2017.01.13

mt毛利家0113松竹飾り図写真は、土佐光成が描いた「松竹飾り図」です。枝振りのよい若松に、笹竹を組み合わせて、橙、串柿、えびを添えたものですが、現在の門松とは随分様子の異なる、古様な松飾りです。

 

よく、松竹梅と並び称せられますが、これらは、松と竹が寒中でも色あせず緑を保つこと、梅は寒中に花開くことから、節を曲げない、文人の理想を表現したものとして、中国で「歳寒三友(さいかんのさんゆう)」として珍重されたことに由来するといいます。

 

日本でも松は、砂浜や岩山など、比較的荒れた土地でも生育すること、古くから燃料・用材に用いられるなど、日本人にとっても身近な木であったようです。そのためか、「常盤なる松」などと、永遠を象徴するものとして歌に詠まれてきました。また、松を、不死・長寿の象徴と考えるだけでなく、神が降り立つ木として、特に神聖なものと考えていたようです。正月に「門松」として松と竹を組み合わせた飾りを飾るのは、そのためです。

 

前近代の貴族や武家の男子は、幼少時には幼名と呼ばれる童子としての名を名のり、元服後、改めて諱(いみな)と呼ばれる、成人の名を名のることが通例でした。現代と比べても、乳幼児の死亡率が高かった前近代には、特に子どもの健やかな成長を願って、幼名に「松」「竹」「鶴」「亀」などの文字を用いることが多かったようです。

 

毛利家の場合も、元就の幼名は「松寿丸」、元就の兄興元の子は「幸松丸」という具合に、「松」の字が用いられることがよくありました。元就の孫輝元は、祖父の元就への敬慕の念と、四十代にしてようやく得た嫡男を溺愛したためか、生まれた嫡男を、祖父元就の幼名と同じく「松寿丸」と名付けました。成長した輝元の嫡男秀就もまた、自らの長子に「松寿丸」と名付けましたが、この子は成人することなく、間もなく亡くなりました。もし彼が健やかに成長を遂げていたならば、「松寿丸」は、毛利家嫡男の幼名として定着していたのかもしれません。