山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第326回

2017.01.06

st%e6%af%9b%e5%88%a9%e5%ae%b6170106%e9%b6%8f%e5%9b%b3写真は、野口小蘋(しょうひん)が描いた、「松に鶏図」です。野口小蘋は、幕末の大坂に生まれた女流画家ですが、後に東京に出て活躍し、明治期における関東南画会の重鎮となった女性です。文明開化の風潮に押されがちであった、旧来の日本画を復興させる運動の中で彼女の画才は注目され、数々の博覧会や共進会で受賞しました。さらには、皇族をはじめとする貴顕からその腕を認められ、明治三十七年(一九〇四)には、女性としては初の帝室技芸員に任じられています。

 

この絵が毛利家の有に帰した理由は定かではありませんが、こうした小蘋と貴顕との交わりの中で、入手されたものだろうと推測されます。

 

松を背景に、三羽のひな鳥とつがいの鶏を描く構図です。伝統的な樹木と鳥を組み合わせた構図に、同じく伝統を踏襲したと思われる松が描かれていますが、鶏の描写は、彼女が学んだ四条派の細密さというよりは、西洋画の影響を受けたのではと思われるような細密さです。

 

鶏は、「酉(とり)」として十二支の一つにも数えられています。十二支は、もともと中国で考えられたもので、当時の人々にとって身近な動物や神獣が取り込まれたといいます。日本では、縄文時代以前には、家畜としての鶏の飼育は確認できないとされ、稲作農耕とともに中国の文化として日本に伝わった可能性が高いとされています。ただ日本では食用とはみなされず、主に闘鶏などの娯楽や、鳴き声が神聖視され、神事に用いられたといいます。

 

毛利元就は、大内義隆の下の山口で長く暮らし、当時のいわゆる「大内文化」に浸っていた長男の隆元に対して、武士の嗜みとしての鷹狩りを勧めています。おそらく毛利氏の本拠、吉田荘の近辺の山野で鷹を放ち、小さな禽獣類を狩ったと思われますが、やはりそこに、鶏は含まれていなかったのでしょう、毛利家の文書に鶏の一字は見当たらないように思われます。