山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第325回

2016.12.23

毛利家161216半5_2写真は、土佐光成が描いた「三番叟図(さんばそうず)」です。「三番叟」とは、天下太平を祈る儀礼曲『翁(おきな)』の後半部分ですが、この絵は、「黒式尉(こくしきじょう)」の面を付けた三番叟が、五穀豊穣を祈念して、鈴を振りながら激しく舞う様子を描いたもので、まさに正月など、祝いの行事にふさわしい舞だといえます。

 

能楽は、古くは「猿楽(申楽・さるがく)」と呼ばれ、寺院の修正会などで上演されていたものだそうです。室町期に入ると、大和猿楽四座の一つ、結崎座(ゆうざきざ)出身の世阿弥(ぜあみ)が、数々の名曲を創作し、『風姿花伝(ふうしかでん)』ほかの演劇理論書を記したことや、将軍足利義満の庇護を受けたことなどにより、室町幕府の「式楽」、すなわち儀式で演じられる芸能としての地位を確立したとされます。

 

室町幕府の影響を受けた、守護や国人領主の間でも、能楽は、重要な場面で演じられていました。永禄四年(一五六一)三月、毛利元就・隆元父子が、芸備両国の国衆や吉田衆と呼ばれる直属の家臣を引き連れ、元就の三男小早川隆景の居城、新高山城を訪問しますが、その時にも、饗宴の始めに、能が演じられています。

 

永禄十一年(一五六八)には、石見国の最有力国衆であった益田藤兼が、毛利氏への服属後、初めて毛利氏の本拠吉田を訪問しています。藤兼は、毛利氏の当主・親族だけでなく、家中に対しても、大量の進物を持参していました。注目されるのは、当時上方から安芸国に下り、この会見の場においても演能したとみられる観世大夫(宗節か?)に太刀・馬代と銭五百貫文を、同じく虎菊大夫に対しては、太刀と銭五十貫文を与えていることです。

 

礼銭のみ見れば、元就宛が二百二十貫文、当主輝元宛が百三十貫文ですから、能楽師がいかに厚遇されたか、能楽が、いかに政治的な場面で重視されたかが、よくわかるのです。