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第324回

2016.12.16

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玄瑞らが強行した、関門海峡における攘夷が失敗に終わると、外国との摩擦を恐れた孝明天皇を説き伏せた幕府により、文久三年(一八六三)八月十八日、長州藩は京都を逐われます。攘夷を天皇・朝廷の真意とみなし、その意に沿うように努めた長州藩は、この処分を幕府・会津藩など「君側の奸」による陰謀とみなして、嘆願による名誉回復を目指すことになります。

 

この書状は、京都での交渉を命じられた玄瑞が、京都への出発に当たり、高杉晋作に宛てたもので、藩主毛利敬親の恩に報いるため、交渉に尽力することを伝えたものです。

 

ところで、この書状で久坂は、自分の名前を「よし助」と記しています。武田勘治が記した『久坂玄瑞』によると、久坂は政変の直前、名を「義助」に改めたそうです。久坂といえば政治的な活動、なかでも攘夷をめざした、朝廷との折衝がよく知られています。しかし、もともとは藩医の子として生まれ、兄の久坂玄機(げんき)の急逝により、久坂家の家督を継いだ人物であり、玄瑞という名も、僧形で出仕していた藩医としての名乗りでした。

 

江戸時代、幕府においても、各藩においても、医師は、頭を丸めた僧形で出仕していました。絵師なども同様で、場合によっては法印・法眼・法橋などの僧位を与えられることもありました。なぜ僧侶でもない医師や絵師が、僧侶に準じた扱いを受けたかは、はっきりしません。

 

絵画や医術など、技術や学術と、宗教・呪術が、未だはっきりとした分化を遂げていなかった近世以前の社会においては、こうした学術・技術において最高水準の技量を有していたのは、いずれも寺院でした。中世、あるいは近世初頭における僧侶の活躍は、現代風にいうところの外交・政治・法務・学術・医術・天文など多岐にわたっていましたから、幕藩権力は、絵師や医師を支配下に置くにあたり、僧侶の位を用いたのでしょうか。