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第323回

2016.12.09

%e6%af%9b%e5%88%a9%e5%ae%b6161209%e6%ad%a3%e6%9c%88%e9%a3%be%e3%82%8ayo 写真は、毛利家伝統の「正月飾り」です。毛利元就が用いたとされる「御佳例吉甲冑(ごかれいきちかっちゅう)」、同じく元就のとされる「日の丸軍扇」、福原貞俊ゆかりの「御佳例盃」、長州(萩)藩の初代藩主毛利秀就が朝廷から拝領した「御重代太刀」を組み合わせたものです。

 

いずれも、毛利家の発展を支えた人々ゆかりの品とされる、たいへんめでたいものばかりです。ただ、いずれも伝承を確かめる術はなく、様式的な特徴からは、「御重代太刀」を除くと、どうやら伝承は後世に付会されたもので、事実とは異なると考えた方が良いようです。

 

毛利元就所用とされる「御佳例吉甲冑」もその一つで、様式的には桃山期の頭巾形兜(ずきんなりかぶと)に、同時代の子ども用の胴を組み合わせたもので、元就とは明らかに年代が異なるとされます。

 

元就は、一代で毛利氏を飛躍させた人物であり、江戸時代の毛利氏にとって、特別な当主であったことはいうまでもありません。元就の孫輝元が、関ヶ原合戦ののち、元就の「書置」を繰り返し持ち出して、一族の結束を固めたことはよく知られています。

 

それより先、元就の三男小早川隆景は、配下の領主に対する統制を強める弟元清・元康に対して、毛利家が今あるのは彼らの協力によるものと諭し、元就の子といえど、彼らを蔑ろにする傲慢な振舞をしてはならないと諭しています。ここからは、元就の四男元清以下の兄弟たちが、元就の子であることを、強く意識していたことはまちがいないようです。関ヶ原合戦に前後して、彼らは相次いで亡くなります。しかし、その意識は、子どもらにも伝えられたのでしょう、輝元が元就を持ち出し、一族の結束を図ろうとしたことは、それなりに根拠のあることでした。彼らの子孫は、近世には一門として、藩政を支える存在となりますから、江戸時代に、政治的な要請から元就に対する崇拝が高まるという考え方は一理あるように思われます。