山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第322回

2016.12.02

毛利家150911半5_訂 写真は、出雲焼の茶碗です。毛利家の伝承では、倉崎権兵衛の作とされています。倉崎権兵衛は、長州(萩)藩の御用窯である、坂高麗左衛門に師事した陶工ですが、松江藩主松平綱隆の求めにより、出雲国(島根県)へ行き、そこで松江藩の御用窯を興したとされる人物です。

 

内箱には、松江藩主松平治郷(不昧)室の和歌が記され、それにちなんで、「山里」と銘が付けられています。口縁から見込みに向けて、同心円状に、徐々に焼き色が薄くなることと、その奥底に、梅花皮(かいらぎ)とよばれる、かすかな釉だまりが丸く見られるのを、山里の月景色に見立てたのでしょう。落ち着いた感のある茶碗です。

 

関ヶ原の戦いに敗れた毛利輝元は、忠誠の証として、幼い長男秀就を江戸へ遣わし、徳川秀忠に出仕させました。江戸で成長した秀就は、家康の次男結城秀康の娘喜佐姫を、秀康の弟にあたる将軍秀忠の養女として、妻に迎えます。以後秀就は、「松平長門守」と名乗りますから、この婚姻は、関ヶ原で生じた毛利家と徳川家との亀裂を、最終的に修復し、関ヶ原の主将であった毛利家さえ徳川将軍家の親族に擬するという、大変重要な出来事でした。

 

倉崎権兵衛を松江に迎えた松平綱隆の父は、京極氏の後をうけて、松江藩松平氏の初代藩主となった松平直政です。直政は、結城秀康の三男、すなわち喜佐姫の弟でした。直政の義兄になった毛利秀就は、慶安三年の末、突如体調を崩し、翌四年(一六五一)正月五日に急死します。長男千代熊丸(綱広)はいましたが、年僅か十三歳、しかもあまりのあっけない死に、家督相続の手続は間に合わず、場合によっては、何らかの処分が下されかねない状況でした。毛利家があれこれと奔走した結果、千代熊丸の家督相続は無事認められますが、それは、千代熊丸の生母喜佐姫と、その親族である直政ら、越前松平一族の後見が条件でした。初期の毛利氏にとって、越前松平氏との姻戚関係は、その存亡すら左右する重要なものだったようです。