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第320回

2016.11.18

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長州(萩)藩との関わりは定かではありませんが、九代藩主毛利斉房(なりふさ)の正室貞操院(ていそういん)が彼に師事していたらしく、山陽から贈られた詩文と菊の押し花が残されています。こうした交流から、この「山水図」も、同様に、山陽から貞操院に献上されたものだろうと推測されています。

 

貞操院は、有栖川宮織仁親王の娘であり、江戸時代を通じて、皇族が毛利家に嫁いだ唯一の事例として知られています。織仁親王の正室である御息所(みやすどころ)は、関白鷹司輔平(たかつかさすけひら)の娘でしたが、この輔平の正室惟保君(いおぎみ)は、長州藩の七代藩主毛利重就(しげたか)の娘ですから、実は、貞操院は重就の曾孫にあたる女性でした。

 

重就が、嫡男治親の正室に、将軍徳川吉宗の孫娘である節姫(ときひめ)を迎えたことは、よく知られています。また、重就の娘は土佐山内家、久留米有馬家などにも嫁ぎ、重就は、将軍家以下、有力外様・譜代の諸大名とも縁戚関係を築いていました。重就の目は、武家社会のみならず、公家にも向けられていたらしく、公家社会への接点とされたのが、惟保君と鷹司輔平との婚姻でした。

 

重就は、この婚姻を大切にしたらしく、幕府に隠居を許された後の、最後の帰国時に、わざわざ忍んで京都市中に立ち寄り、惟保君の娘らと対面を遂げています。治親の子である、嫡孫斉房の正室に、貞操院が迎えられた経緯は定かではありませんが、前例のない宮家からの降嫁が実現できたのは、重就との濃い血縁が決め手となったことはまちがいないと思われます。