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第318回

2016.11.04

st%e6%af%9b%e5%88%a9%e5%ae%b6161104%e8%87%aa%e7%ad%86%e6%9b%b8%e7%8a%b6 写真は、毛利輝元が側近の児玉元次に宛てた、自筆の書状です。

 

内容は、豊臣秀吉から呼び出しを受けた輝元が、伏見城に赴き忠節を誓う神文(しんもん)を提出したこと、秀吉から「東は家康、西は我々へ任せ置かれ」と、徳川家康とともに東西の取次を任され、たいへん光栄に感じたことを伝えたものです。

 

これは、文禄四年(一五九五)に、後継者と目していた関白豊臣秀次を自害に追い込んだのち、新たな支配体制を築く必要があった豊臣秀吉が、有力大名である徳川家康・毛利輝元を、それぞれ東国・西国諸大名の取次役に任じて、政権の安定を図ろうとしたものといいます。これに先立ち輝元は、小早川隆景・徳川家康と連名で、秀吉の子秀頼への忠節、東西のそれぞれに秀吉の命令を正しく伝えると誓う起請文(きしょうもん)を提出しています。この三名の役割は、のちに前田利家や宇喜多秀家らを加え、秀吉の晩年ならびに死後の政権を支えた「五大老制」につながるものとされているのです。

 

ところで「任せ置かれ」とありますが、その内容は、一般には「取次」とされているものの、必ずしも職務がはっきりとはしていません。たとえば毛利氏の場合、秀吉との交戦、国境画定交渉の相手であった黒田孝髙・蜂須賀正勝両名が、初期の政権への取次役を果たしていました。秀次事件以降、彼らとの交渉は見られなくなりますが、彼らとの関わりは依然として重要であり、関ヶ原の戦いの時には、彼らの意向が毛利氏の動向を左右するほどでした。

 

全国の諸大名は、このように、秀吉の全国統一過程で、誰を交渉窓口として服属したかによって、政権とのつながり方が決まっていました。こうした交渉窓口を「取次」といいますが、その「取次」と、家康・輝元・隆景との役割の違いや分担の内容については、こののちの政権の在り方が流動的であったためか、あまりはっきりとしていないのです。