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第317回

2016.10.28

st%e6%af%9b%e5%88%a9%e5%ae%b6161028%e5%9b%9b%e5%ad%a3%e5%b1%b1%e6%b0%b4%e5%9b%b3写真は、雪舟が描いた「四季山水図」です。「山水長巻」の別名で知られる、この水墨画は、日本水墨画の傑作として、優品揃いの毛利家伝来品のうちでも最も優れた作品の一つとして古来知られた名品です。

 

写真の場面のように、ごつごつとした岩の描き方や、黒々とした墨線などは、いかにも雪舟らしい力強さです。この「山水長巻」の巻末には、雪舟自ら記した款記がありますが、そこには「前天童第一座雪舟叟等楊」と、雪舟自身が中国に渡ったことを高らかに記しています。雪舟が、大内政弘の派遣した遣明船で明国に渡ったことはよく知られていますが、その経緯などについては、まだよく分かっていないところも多いようです。

 

「日本国王」とされた足利将軍の下で、大内氏などが派遣した、朝貢形式の貿易を、一般には「日明貿易」と呼びます。この「日明貿易」で、大内氏は大きな利益を上げていたとされますが、大内氏が明に持ち込んだもののうち、最も重要な品は、領内でとれる銅でした。中国で、銅は、国内経済を支える銅銭の素材として、何にもまして必要とされていたのです。

 

大内氏の領国である長門国は、東大寺大仏の鋳造に長登銅山の銅が用いられるなど、古代以来銅の産地として知られていました。大内氏が山口を本拠とした理由の一つには、この長登銅山のある美祢地域への交通の便があったと思われますが、大内氏にとって、この銅山の存在は、大変重要なものでした。室町時代に、大内氏が、西国最強の大名として君臨しつづけた、基盤の一つであったとみてまちがいないと思われます。

 

他国との壮絶な攻防を繰り返した、中世の大名権力にとって、銅などの国内資源を、いかに確保し、権力基盤に組み込むことができるか否かは、死活に関わる重要な問題でした。