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第316回

2016.10.21

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文久三年(一八六三)八月十八日の政変により、京都を逐われた長州(萩)藩ですが、それにより、いわゆる「正義派」の面々が続々と帰国し、それにより藩政も一新されたこと、さらには藩主自身の上京も決まり、失墜した毛利家再興の兆しが見えたので、晋作としては政務座役を退きたいというのです。

 

この演説書には、そこにいたる高杉の経歴が記されています。それによると、高杉は長州藩次期藩主である世子(せいし)元徳(もとのり)の小姓役を務めている時に、上海行きを命じられ、その任務を果たした後に、「学習院御用」を命じられたようです。続いて、江戸において元徳に対して行った建言が受け入れられず、「亡命」すなわち脱藩を試みたこと、さらには、神奈川の外国人襲撃を企てたところ、元徳の「鎮撫」を受けて帰藩したようです。その後も高杉は、京都に行ったものの、自らの意図が果たせないことを恥じて、自ら断髪して「東行」と名のり、隠退したというのです。

 

フランス海軍の報復により、長州藩の攘夷が失敗に終わっただけではなく、関門海峡の安全を確保するための、諸外国の攻撃が目前に迫った文久三年(一八六三)六月、高杉は急遽、当時藩政府が置かれていた山口に呼び出されます。高杉の演説書によると、このとき「御内用」があると称して、隠棲中の高杉を山口に呼び出したのは、やはり世子の元徳だったようです。

 

高杉晋作といえば、破天荒な行動で知られ、この演説書に記された内容も、脱藩や無断での隠棲など、江戸時代の常識的な藩士としては、思いもよらない行動を繰り返しています。しかし、その都度高杉をかばい、あまつさえ危機的な藩の状況を救うため、馬関防衛の任を与えたのは、この演説書による限り、どうやら世子の毛利元徳だったようなのです。