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第315回

2016.10.14

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これを晋作が記したのは、文久三年(一八六七)六月七日のことです。直前の六月五日、長州(萩)藩は、自国船砲撃への報復のために襲来したフランス海軍により、下関の砲台を徹底的に破壊されていました。長州藩兵は、なすすべもなく敗退し、長州藩の「攘夷」戦は、完全な敗北であることが明白になりました。

 

そこで、白羽の矢が立てられたのが、当時隠棲中だった高杉晋作でした。この「綱領」によると、長州藩世子の毛利元徳に直接呼び出された晋作は、藩主敬親の面前で、直接下関の防衛を命じられたようです。急遽下関に下った晋作が目の当たりにしたのは、藩の危機に対して、何らかの力になろうと、続々と下関に集まってくる「有志」の姿だったようです。

 

彼らを、新たな軍事集団に組織して、藩の危機を救おうと、晋作が結成したのが、奇兵隊でした。この「綱領」には、要点となる場所に、朱筆で「可然候」と、許諾を意味する言葉が記されていますから、おそらくは藩の許可を得るために、晋作が藩政府に提出し、それを藩が許可したものだと思われます。

 

「綱領」によると、この時奇兵隊に参加した人々のうちには、既に「小銃隊」に属していたり、「小吏」を務めるなど、本業を別に持っている「藩士」「陪臣」「軽率」らが含まれていました。晋作は、彼らの志は拒みがたく受け入れざるを得ない、と記していますが、藩にとっては、戦時とはいえ、彼らの勝手な離脱は、軍事や行政に著しく支障を来す恐れがありました。そこで晋作としては、あらかじめ藩の許可を得て、奇兵隊を結成することにしたようです。ただ、戦争の終結後、彼らの処遇をどうするかは、当然考えておかなくてはならない問題でしたが、晋作がいかなる見通しを持っていたかは、ここからは読み取ることができません。