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第313回

2016.09.30

%e6%af%9b%e5%88%a9%e5%ae%b6160930%e7%a5%96%e9%9c%8a%e7%a4%be%e5%85%a8%e6%99%afyo写真は、旧毛利家本邸が完成した直後に作られた記念の「写真帖」のひとこまで、祖霊社の写真です。現在は、周囲の木々がうっそうと茂り、静寂な雰囲気ですが、完成当初は今より広々とした空間の、より荘厳さを重視した建造物だったようです。これは、その名のごとく、毛利家の祖霊神を祀る社として建てられました。

 

江戸時代の史料には、歴代の藩主が度々参詣している記事が見られ、萩城の内部に鎮座していたようです。その後、明治維新により、毛利元徳が東京高輪に邸宅を建設すると、当主の移動に従って、祖霊社も東京邸に遷座していたようです。

 

大正五年(一九一六)、現在の防府市多々良の地に、公爵毛利家の本邸として新たに邸宅が建設されると、完成間際の七月初め、祖霊社、ならびに毛利家が代々崇敬してきた、宮崎社・秋葉社・稲荷社が、東京から遷座されました。この行事は、旧毛利家本邸の建設にとって、最後の重要な行事であったらしく、工事責任者の原竹三郎は、九月に記した「防府邸竣成報告書」の末尾に、この遷座式を終えて数日後の七月十九日をもって、この邸宅工事が「全部完成」したと記しています。

 

幕末の藩是三大綱に、「祖先へ孝道」が加えられているように、家門の永続を何よりの重大事と考えていた武家にとって、祖霊の祭祀は何よりも重要なことでした。祖霊社の遷座についての詳細は不明ですが、本来でしたら、明治二十九年(一八九六)に当主元徳が死去し、嫡男元昭(もとあきら)が家督を相続した時、元昭が常住していた三田尻邸(現在の英雲荘)に、祖霊を移すべきだったのかもしれません。しかし、既に明治二十五年(一八九二)に、多々良の地を本邸とすることが決められていましたので、いわば「仮住まい」の三田尻邸に、祖霊社を移すことは断念し、本邸の完工を待って、祖霊社を防府の地に迎えたのだと思われます。