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第311回

2016.09.16

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裏には、本邸完成時の当主で、公爵の毛利元昭(もとあきら)の手により、建築の経緯が記されています。それによると、元昭の父で、先代の公爵であった毛利元徳(もとのり)が、現在の防府市多々良の地に、本邸を建設することを決めたものの、日清・日露の両戦争により、工事が中断したこと、明治四十四年(一九一一)に明治天皇の行幸を、この多々良の地で迎えたところ、その勝景を「大賞」されたので、本邸の建設に踏み切ったと記されています。

 

明治天皇の行幸に関する毛利家側の記録を読むと、明治天皇を迎えた明治四十四年(一九一一)段階では、本邸工事は中断されたままでした。当主元昭のための別邸として、萱葺き屋根の仮御殿は作られていたようですが、天皇を迎える「行在所」としての体裁を、改めて整えるため、急遽御座所や車寄が改造され、進入路としての道も改修されたようです。

 

たとえば、明治三十五年(一九〇二)に明治天皇が、熊本往復の途上、新築間際の長府毛利邸に宿泊したように、現在各地に残されている当時の大名華族の邸宅は、天皇をはじめとする貴顕の迎賓施設に利用されることがよくありました。旧毛利家本邸の場合も、実際の建設に先立つ平面図を見ると、貴顕の迎賓施設として洋館の建設を検討していた形跡も見られます。

 

旧大名家邸宅のこうした役割を念頭に置くならば、瀬戸内海に面した風光明媚な高台とはいえ、仮住まいの建物に、天皇を迎えざるを得なかったことは、かなり残念なことだったに相違ありません。その思いは、明治維新を主導した、公爵毛利家としてはなおさらのことだったと思われます。そうしたことが背景にあったのでしょうか、翌大正元年(一九一二)、ついに毛利家は、多々良邸(旧毛利家本邸)の本格的建設に着手したのです。