山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第310回

2016.09.09

大正五年(一九一六)七月、現在の防府市多々良の地に、公爵毛利家の本邸が完成しました。

 

これが現在の毛利博物館(旧毛利家本邸・毛利氏庭園)です。本邸の建設自体は、明治二十三年(一八九〇)に「家憲」を定めた際、当主常住の地を、山口県下に定めるとして以来の懸案でした。本邸の建設は、毛利家としては二十年来の課題だったのです。

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福田東亜氏によると、この間の、家憲の制定から本邸着工に至るあらゆる点で、議論を主導した人物が、旧藩士の井上馨であったといいます。井上は、「毛利家永遠のため」に「家憲を制定することが必要」と、当主で公爵の毛利元徳(もとのり)に進言し、同じく旧藩士の杉孫七郎、家令の柏村信と協議して家憲を定めたそうです。

 

このとき井上は、毛利家親族で海外留学の経験もある吉川重吉とともに、旧藩主毛利家一族の山口県下居住をすすめたといいます。吉川重吉によると、それは、イギリスのジェントリー層のように、名望家として地方に拠点を置き、そこの地域住民と利害を共にすべきという主張に基づくものだったようです。

 

井上の提案した方針どおり、当主毛利元徳の嫡男で、二代目の公爵となった元昭(もとあきら)は、その生涯の大半を防府の地で暮らしました。前半は、かつての「御茶屋」を引き継いだ「三田尻邸(現在の英雲荘)」で、後半は、大正五年(一九一六)に新築された「多々良邸(現在の毛利博物館・旧毛利家本邸)」での暮らしでした。

 

ただ、そこで元昭がどのように暮らしていたのか、地域住民とどのように「利害」を共にしたのかについては、まだよくわからないことも多いようです。これは明治維新後の毛利家にも共通する点であり、公爵となった毛利家の存在が、山口県にどのような影響をもたらしたのか、今後大局的な視点から検討する必要があるようです。