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第309回

2016.09.02

mt毛利家0902毛利敬親御意書 これは、幕末の長州(萩)藩主毛利敬親自筆の命令書です。文久二年(一八六二)七月二十四日、敬親が京都の藩邸において発したものです。

 

これより先、長州藩は、「天朝へ忠節」「幕府へ信義」「祖先へ孝道」の三つの原則を両立させる「藩是三大綱」を定めていました。しかし、政策の主導権が、江戸の幕府ではなく、京都の朝廷に移ったとみた長州藩が、「天朝」すなわち朝廷への忠節を第一とし、その他二策は、追って実現を目指すとした、方針の大転換を敬親自らが藩内に宣言したのです。

 

この後、朝廷の意向を、開国和親ではなく、外国を打ち払う「攘夷」であるとみた長州藩が、次々と過激な攘夷策を主張し、政局を一時主導したことは、よく知られているところです。

 

また敬親は、どのような艱難が待ち受けていようとも、朝廷の意向を実現させる「周旋」をやり遂げ、朝廷への忠節を「確守」し、その上で「信義」「孝道」を続いて実現させるので、「国家」すなわち長州藩・藩主毛利家のために奉公してほしいと、家臣一同に説いています。

 

これより先の嘉永三年(一八五〇)、萩城下が大洪水に襲われ、萩城内の毛利元就の菩提所洞春寺の裏山も崩れるという事件がありました。その際、敬親は、自らの能力不足により「洞春公(元就のこと)」が「御震怒」なさったのだと恐縮しています。また、公内借裁きの実施、さらには兵庫警衛の際にも、毛利家の歴史と伝統を踏まえた奉公を、家臣に求めています。

 

これらの表現からすると、敬親にとって「祖先へ孝道」とは、何よりも重視すべき規範の一つであったと思われます。ただこの家を大切にする考え方は、当時の大名にとって、ごく自然な考え方であり、特段否定されるような考え方ではありませんでした。

 

敬親は、決して「祖先へ孝道」を捨てたわけではありません。ただ、彼が、「家」よりも「天朝へ忠節」を、なぜ優先したのか、その決め手は必ずしも明らかとはいえないのです。