山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第308回

2016.08.26

mt毛利家0826米船砲撃他ニ付問書写 写真は、文久三年(一八六三)七月に、幕府から長州(萩)藩主毛利敬親に下された詰問状です。内容は、この年五月十日夜に、関門海峡を通過しようとしたアメリカ船に対して、砲撃を加えたこと、翌朝には海峡を隔てた小倉藩領に対して砲撃を加えたこと、の二点に対する詰問でした。幕府としては、五月十日をもって、いったん開いた港の閉鎖交渉を開始するとは宣言しましたが、真の意味での「攘夷」は、その談判が決裂した時に限るとしていたのです。

 

長州藩の砲撃は、幕府の命令を無視したものであり、幕府はその点を、襲来したわけでもない外国船をむやみに砲撃するとは何事かと責め立てています。

 

さらには、隣接する小倉藩に、無断で兵員・兵器を上陸させた事実を重く見た幕府は、こうした長州藩の姿勢を、朝廷から大政を委任された幕府をないがしろにする行為であり、ひいては朝廷をも軽んじる行為であるとして、厳しく詰問しています。

 

ところで同じく七月には、朝廷は、勅使正親町少将を山口に下し、長州藩に対して、全国諸藩のうち唯一「攘夷」を実行したことを褒める勅書を与えています。

 

七月という時期は、長州藩の「攘夷」が、外国から手痛い反撃を受けて、実は失敗したという事実が、漸く京都にも伝わり始めたころだと思われます。おそらくは小倉藩を通じて、正確な情報を入手した幕府は、いち早く長州藩の非法を詰問したのでしょう。一方、攘夷を熱望する朝廷は、長州藩の一報を信用し、念願の攘夷決行に対する褒勅を下したのでしょう。一見して矛盾する対応が見られるのは、こうした情報収集の差によるものだったと思われます。

 

長州藩の「攘夷」が敗北であった事実が知れ渡るにつれ、長州藩に対する周囲の見方は厳しさを増していきます。こうした事態の推移を読み切れなかった長州藩が、突如、八月十八日の政変で京都を逐われることになることは、よく知られているところです。