山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第307回

2016.08.19

nt毛利家160819_郭子儀図 写真は、田能村直入が描いた「郭子儀図」です。直入は、豊後国(大分県)の出身で、田能村竹田の養子となり、幕末から明治にかけて、主に上方で活躍したとされる南画家です。

 

画題とされた郭子儀(かくしぎ)は、中国唐代の武将です。富貴を極め、長寿を保ち、子らも出世し、多くの孫に恵まれたことから、「富貴」「長寿」の画題とされていました。

 

この絵も、多くの子や孫に囲まれて幸せそうな、福々しい好々爺として描かれています。

 

箱書によると、この絵は、明治五年(一八七二)に、大坂(大阪)の豪商加島屋の当主広岡久右衛門が献上したもののようです。

 

この絵を献上した豪商加島屋は、江戸時代に多額の資銀を、長州(萩)藩に貸し付けていました。禁門の変により、長州藩が朝敵とされると、藩の蔵屋敷は幕府によって没収されます。その結果、長州藩は、加島屋をはじめとする、大坂商人から資金を得る手立てを失いました。これは、藩財政のかなりの部分を借銀に頼っていた長州藩にとっては、かなりの痛手でした。

 

しかしその一方で、幕府との交戦により、大坂商人との関係が断たれた、元治元年(一八六四)~慶応三年(一八六七)の四年間については、大坂商人からの借財について、関係の途絶を理由に、元利ともに返済も凍結されていたこと、さらに明治元年(一八六八)以降も、うち続く北陸・東北での戦いの費用がかさむことから、長州(山口)藩は、この間の返済について、最終的に凍結・繰り延べにしようとしたことが、田中誠二氏によって明らかにされています。

 

いわゆる「四境戦争」の勝利に関しては、奇兵隊など身分を問わず、戦力となるものを根こそぎ動員したことや、西洋式の戦術・武器の採用など、これまでも様々な視点から、要因が分析されてきました。しかし、戦争を根本から支える、戦費をどうひねり出したのか、という観点については、まだまだ研究の余地があるようです。