山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第306回

2016.08.12

毛利家160812_紺糸威具足写真は、毛利敬親所用の「紺糸威具足(こんいとおどしぐそく)」です。素懸威(すがけおどし)と呼ばれる様式の甲胄で、胴や袖・草摺(くさずり)など主要部分を構成する、板状の部品である札板(さねいた)を綴る糸が太く、一本ごとの間隔も広く開いているため、黒々とした漆塗の札板がよく見えることが特徴です。大名家の甲胄ではありますが、前立(まえだて)と呼ばれる兜の飾りも小ぶりに作られ、豪華というよりは質実な感の強い甲胄だといえます。

 

とかく派手好みの江戸時代の甲胄としては、いささか地味で、いたるところに実戦向きの工夫が施されているといいます。この甲胄がいつ制作されたかは、よくわかりませんが、少なくとも形状を見る限り、これを作らせた毛利敬親は、実戦でこの甲胄を用いるつもりだったといってもよいと思われます。

 

戦争の準備といえば、長州(萩)藩では、天保十四年(一八四三)の大操練がよく知られています。嘉永六年(一八五三)には相州警衛、安政五年(一八五八)には兵庫警衛と、実際にも軍事的な奉公を、幕府から立て続けに命じられていますから、長州藩の軍備は、他藩に抜きんでて充実していると、周囲からもみなされていたのでしょう。

 

文久三年(一八六三)四月、朝廷の強い意向に屈した幕府は、ついに、五月十日をもって、攘夷を行動に移すと諸藩に命じました。早くから攘夷を主張していた藩士の久坂玄瑞は、このときばかりと、攘夷決行の地として、関門海峡に下り、諸方を見聞し、意見書を記して、問題点を指摘しています。それによると、久坂には、大砲の不足、有能な物見と、現場で臨機応変の判断ができる指揮官の欠如、さらには下関を領有している長府藩の消極性が目に余ったらしく、これらの改善を藩に要求しています。急進的な攘夷藩であり、諸藩に抜きんでて軍備が充実しているはずの長州藩でさえ、実際の攘夷に向けてはこの程度の準備状況だったようです。