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第305回

2016.08.05

毛利家160805秋草図中啓2016四境 写真は、「中啓(ちゅうけい)」という、扇の一種です。骨が途中で曲げられ、閉じても半開きの末広がりの状態となるため、「末広」とか「末広扇」とも呼ばれます。江戸時代の武家では、直垂(ひたたれ)などを着用する時に用いたようです。

 

この中啓は、箱の墨書によると、明治二年(一八六九)三月六日、上洛して参内した長州(萩)藩主毛利敬親(たかちか)が、明治天皇から与えられたものだそうです。この年二月、朝廷は勅使を山口に派遣し、毛利敬親・元徳(もとのり)父子の、多年の勤皇を賞するとともに、上洛して大政を翼賛せよと命じていました。敬親の上洛はこの要請を受けたものと思われますが、体調が思わしくなかった敬親は、三月六日、参内して隠居を願い出、世子元徳への家督相続を願い出たのです。この願いは、天皇の東京行幸を控えていたため、しばらく検討期間を置くこととされ、改めて六月四日に勅許がおりました。

 

この敬親の隠居願いの進め方は、幕府の時代そのままの方法でした。これを見る限り、将軍が天皇に代わったのみで、天皇と大名の関係に、目新しい関係を見いだすことは難しく、大名は、将軍に代わって天皇に、その支配権の保証を求めたと考えざるをえません。

 

一方、この一連の出来事に先立ち、この年の正月二十日、敬親と薩摩・土佐・肥前の各藩主は、連名で、藩の封土と人民、ならびにそれらの支配権を、天皇に返還する「版籍奉還」を建白していました。この建白もまた、東京行幸を控えていたため、回答は留保されますが、この版籍奉還は、一般には、天皇中心の近代国家作りへの第一歩とみなされています。

 

敬親の隠居願いは、この建白の回答待ちの間に行われたものでした。この新旧、対照的な二つの願い出からは、毛利敬親を含め、倒幕・維新を推し進めた長州藩の首脳でさえ、新しい国づくりの明確なビジョンを、まだ持っていなかったのでは、と疑いたくなるのです。