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第304回

2016.07.29

st毛利家160729菊水文蒔絵文台 写真は、文台(ぶんだい)といいます。文台は、文房具の一種で、硯や筆を収める硯箱とともに作られることが多く、文字などを書く紙を置く台のことです。これは、梨地(なしじ)に、赤みがかった漆で水の流れを表し、金銀の高蒔絵で菊の花をあしらった豪華なものです。

 

記録によると、明治元年(一八六八)二月十二日に、父の毛利敬親に代わって参内を遂げた、養子元徳が、朝廷から与えられたもののようです。

 

禁門の変における御所への発砲が咎められ、長州(萩)藩は朝敵とされました。しかし、幕府軍の攻勢を、結果的に四つの国境すべてで撃退すると、この幕府の弱体ぶりに見切をつけた薩摩(鹿児島)藩と、水面下で交渉して同盟を結び、倒幕派の公家たちと示し合わせて、慶応三年(一八六七)十月十四日、ついに幕府および会津・桑名両藩追討の密勅を手に入れました。

 

これに先立つ十三日付で、毛利敬親・元徳父子に対しては、これまでの罪を許し、官位なども元に復旧する旨の命令が下されています。これは、「討幕の密勅」と発給者が同じであることなど、「密勅」同様、正式な朝廷の会議を経たものではなかったようです。しかも、「討幕の密勅」が下されたその当日、将軍徳川慶喜が、大政を朝廷に奉還したため、「討幕の密勅」とともに、この「官位復旧の沙汰書」も、日の目を見ることはありませんでした。

 

その結果、敬親父子の免罪は、この後、十二月八日の王政復古まで待たなくてはなりませんでした。王政復古の会議で、それまでの罪を許され、官位等の復旧を許された毛利敬親父子は、翌年二月、名代としての元徳を、晴れて参内させます。その場で、多年勤皇の功を遂げたことを、再び認められ、褒美として与えられたのが、この文台と硯箱だったのです。

 

長州藩にとって、先代孝明天皇の意を奉じて攘夷を決行したにもかかわらず、朝敵とされたことは、遺憾極まりないことでしたから、この名誉回復は、まさに悲願の達成でした。