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第303回

2016.07.22

毛利家160722陣笠 写真は、幕末の長州(萩)藩主毛利敬親(たかちか)の養子として、敬親とともに動乱を乗り切った元徳(もとのり)所用の陣笠(じんがさ)です。

 

陣笠とは、もともとは下級の侍が、兜に替えて用いたものとされます。しかし、泰平が続いた江戸時代になると、大名なども兜に替えて着用したといいます。元徳の陣笠は、大名のものにふさわしく、外面はしっかりと漆で塗り固め、内面には金箔を張り詰めた豪華なものです。正面には金箔で毛利家の家紋、頭頂から四方に金の筋が描かれているのが特徴です。

 

元徳が、正式に敬親の跡継ぎである「世子(せいし)」に定められたのは、安政元年(一八五四)のことでした。以後元徳は、藩主嫡男として江戸で暮らしますが、文久二年(一八六二)における参勤交代制の緩和に伴い、江戸を離れます。

 

田中誠二氏によると、このとき、下屋敷である麻布邸に備蓄されていた「穴蔵銀(あなぐらぎん)」が開封され、横浜での蒸気船購入に宛てられますが、それを裁可したのは、元徳だったそうです。そのほか元徳は、朝廷の命により、敬親の在国時に、敬親に代わって在京を命じられるなど、敬親名代としての役割を果たしていました。これらの事実から推量するに、元徳は、かなり重要な裁量権を敬親から付与されていたと考えた方が良さそうなのです。

 

元治元年(一八六四)七月には、前年八月十八日の政変で京都を逐われた藩の復権を目指して、元徳も自ら海路上京を試みます。しかし、禁門の変の敗報を聞き、讃岐(香川県)多度津から、引き返さざるを得ませんでした。後に長州藩は、この元徳上京を、欧州より帰国した伊藤博文・井上馨がもたらした海外情報を、京都に注進するためと弁明しています。しかし、朝廷・幕府は、これを認めず、藩主敬親に準じる裁量権を持った元徳の出陣を重大事とみなし、禁門の変に対する藩主父子の責任を厳しく問い、長州「征討」の意向を固めていくのです。