山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

お問い合わせはこちら

第302回

2016.07.15

毛利家160715毛利忠正具足祝図写真は、毛利敬親(たかちか)と重臣等の「具足祝」の姿を描いた絵です。具足祝とは、長州(萩)藩において、例年正月十一日に開催されていた、具足の着初めのことです。

 
この絵は、文久四年(一八六四)の具足祝の様子を、給仕役として参列した藩士河北一(かわきたはじめ)が、兼重暗香(かねしげあんこう)に描かせ、毛利家に献上したものです。

 

長州藩は、前年の八月十八日、佐幕派公家と結んだ一橋慶喜らが起こした政変により、京都を逐われていました。無実を訴える使者を京都に派遣するなど、藩を挙げて汚名をはらそうとしていた長州藩にとって、この年の具足祝は、例年と異なり、京都への進軍をも視野に入れた、緊迫した情勢の中で行われたようです。

 

中央最上段、紺色の甲冑に身を固めて座っている、神妙な面持ちの人物が、藩主毛利敬親です。よく見ると、敬親の前、三宝の上に一巻の巻物が見えます。この絵には川北の書付が添えられていますが、それによるとこれは、「軍令状」だということです。

 

長州藩兵が、国許を出発するにあたり、敬親(この時点では慶親)は、後継ぎの世子定広(のち元徳)と連名で、一通の軍令状を与えたといいます。それは、天文二十二年(一五五三)に毛利元就・隆元父子が連名で出した戦陣での規則を、そのまま写し、毛利家における「万古不易之軍令」として、兵を率いた家老国司信濃に与えたものです。現在残されている軍令状に記された敬親・定広の奥書には、七月と記されているので、川北の絵とは時期があいませんが、敬親・定広両名の名で軍令状が出されたことは間違いないようです。

 

禁門の変に敗れた後、長州藩は兵の派遣について、京都に向けた軍事行動ではないと申し開きします。しかし、幕府は、国司信濃に与えられたこの軍令状こそが、軍事行動の動かぬ証拠だとして、長州藩の責任を問い、問罪の師を長州に差し向けることとなるのです。