山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第301回

2016.07.08

毛利家160708銀采配写真は、長州(萩)藩の初代藩主毛利秀就が用いたとされる、「采配(さいはい)」です。采配とは、切り裂いた細長い紙片を房状にまとめ、柄の先に取り付けて、振って軍勢を指揮した武具のことです。この采配も、もとは、細長く切り裂いた銀紙を束ねて、柄に括り付けたものだったと思われますが、四百年の年月を経て、銀紙は縮れ、柄は半ば欠損しています。

 

一般に近世の軍隊は、万石以上の石高を持つような大身の武士を除けば、幾つかの組に編成され、軍事や普請・防犯・防災など、さまざまな活動に従事したといいます。長州藩の軍制としては、中堅家臣団によって構成される「八組」が知られています。これは、『もりのしげり』によると、「馬廻(うままわり)」とも呼ばれ、四〇~一六〇〇石の「大組士」と呼ばれる藩士を、八つの軍団に編成し、交替で参勤や萩城守備の役割を担わせたものだとされます。

 

秋山伸隆氏によると、毛利氏の下で「組」の編成が見られるのは、慶長二年(一五九七)の第二次朝鮮出兵時だとされます。このときの組衆の構成や、関ヶ原合戦の関連文書などを見る限りでは、これらの組は、組衆の人数も、組衆の所持する石高の総計に関しても、大小のばらつきが大きく、江戸時代の、均等な組編成とは程遠いものだったようです。それは、戦国期段階の人的関係が、そのまま組編成に反映されたためと考えられています。

 

関ヶ原合戦後の、度重なる幕府課役は、軍役に相当するものとして、長州藩ではその都度さまざまな関連法を定めています。組の編成替えもまた、こうした法制の整備と並行して行われたと思われますが、不均質な組編成が、どのように均質な近世軍団に編成替えされるかは、まだ明らかでない部分が多いようです。秀就の時代は、中世的な軍事編成が、石高を基準にした近世的な軍団編成に整備される、まさに過渡の時代でした。はたして秀就は、この采配を実際に振るうことがあったのでしょうか。