山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第300回

2016.07.01

36910002(毛利輝元像・2016萩藩・㈱地域情報新聞・ほっぷ300)

 写真は、毛利輝元の肖像画です。輝元が、関ヶ原の戦いに敗れ、防長二か国に領国を削減されたことは、よく知られています。関ヶ原の戦いでは、現地に派遣された輝元のいとこ吉川広家が、戦況を東軍有利と見極め、輝元の信任の篤い福原広俊と語らって、毛利領国の保全と引き替えに、徳川方に内通、決戦の当日は戦闘に参加せず、東軍の勝利に貢献したのでした。しかし、西軍総帥としての輝元の責任自体は、無視できなかったためか、戦後、領国保全の約束は反故にされ、毛利氏は防長二か国のみを、新たに徳川家康から与えられたのです。

 

この時のいきさつが原因で、毛利宗家と吉川家とが不仲になったという説もあるようです。しかし現実を見る限りでは、ごく一時的なわだかまりもあったようですが、それはいち早く修復されたようです。移転後の領国経営で、広家は、防長二州防衛の要である玖珂郡に所領を与えられ、東の敵に備えるため、岩国(横山)城を本拠とします。その後も、広家は一門の年長者として、一族をとりまとめる役割が期待されていたようです。また、毛利・吉川の紐帯が不可欠、と考えた輝元は、愛娘に吉川家との縁がいかに大切であるかを懇々と諭した上で、愛娘を広家の嫡男広正に嫁がせています。

 

輝元の子で、初代の長州藩主とされる秀就もまた、吉川家を頼りにしていました。田中誠二氏によると、輝元の死後不仲となった一門で長府藩主の毛利秀元と決別し、年老いた老臣益田元祥も隠退すると、秀就は、藩の総覧を吉川広正に依頼し、広正もこれを引き受けたといいます。また秀就は、広正を、秀元や弟の就隆同様、「大名」の格式で遇するつもりだったようですが、幕府の否定によって、それは果たせなかったといいます。

 

毛利・吉川両家の確執は、少なくとも輝元・秀就と広家・広正の間には認められず、なぜ関ヶ原が不仲の原因となった、という説が巷間に流布しているのかは、よくわかっていません。