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第299回

2016.06.24

mt毛利家0624馬寮馬具

写真は、「馬寮馬具(めりょうのばぐ)」といいます。もともとは、長州(萩)藩の初代藩主毛利秀就(ひでなり)が、朝廷から与えられた一頭の馬に装着されていた馬具の一式が、馬の死後も大切に保管されたものです。朝廷の備品であることを示すかのように、鞍の前輪・後輪(しずわ)ともに菊と桐の紋章が、金箔で描かれています。

 
『毛利四代実録』によれば、この馬具は、寛永三年(一六二六)八月十九日、三代将軍徳川家光の参内に供奉した功績により、朝廷から下されたもののようです。この時の徳川秀忠・家光父子の上洛は、後水尾(ごみずのお)天皇を、将軍の京都での居城二条城に迎えるためのものでした。天皇の行幸は、天皇に娘を嫁がせ、皇室の外戚となった秀忠の許を、天皇夫妻が、自ら訪ねる側面をもち、皇室と徳川家の密接な関係を内外に示すだけでなく、徳川家の揺るぎない権勢を、参列した諸大名に印象づける意義を有していました。

 

こうした盛儀を盛り上げるためでしょうか、このとき家光の参内に供した諸大名は、軒並み官位の昇進があり、秀就もまた、侍従から右近衛権少将への昇進を果たしています。秀就が侍従となったのは、関ヶ原合戦が発生する前年の慶長四年(一五九九)、わずか五歳の時でした。父の輝元と並んで敗軍の将とされたためか、以後秀就の官職は、四半世紀にわたって据え置かれていました。これは、徳川家康の孫娘、二代将軍秀忠の養女を妻に迎えて以後も、変わることがありませんでしたので、この寛永三年(一六二六)の昇進は、毛利家にとって、かなりめでたい事件であったことは間違いないと思われます。

 

ただこのときの昇進は、やはり行幸の祝儀だったのでしょうか、秀就の「少将成」はその後の毛利家の家格とはされませんでした。毛利家から再び少将への昇進を遂げるのは、世子治親の夫人に将軍の孫娘を迎えた、七代藩主重就(しげたか)まで待たねばなりませんでした。