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第298回

2016.06.17

毛利家160617黒糸威具足yo

写真は、長州(萩)藩の初代藩主毛利秀就(ひでなり)所用とされる甲胄です。全身黒ずくめのおどろおどろしい姿ですが、腿を防護する草摺(くさずり)の先には白熊(はぐま)と呼ばれる獣の白い毛が、兜の頭上には大沢瀉(おおおもだか)をかたどった銀製の頭立(ずだて)が添えられ、それらがひときわ目立つ、江戸時代初期ならではの、派手な具足です。

 
秀就は、早くに親元を離れ、江戸で同じような年代・境遇の若者たちと交わり、最先端の流行に触れたせいか、何かにつけ派手好みだったようです。父の輝元からは、しばしば財政に配慮するよう諭されてもいました。秀就の武具には、この甲胄のように、時代の風潮に染まった、派手で華美なものが多く、遺品からも、派手好みの秀就の趣向が垣間見られるようです。

 

秀就は、関ヶ原の敗戦により、父の輝元に代わって、わずか五歳で江戸へ赴きます。これは、「在江戸」といい、領国を留守にできない父の輝元に代わって、次代の天下人である徳川秀忠の側近く奉仕させるためでした。また、秀就のような存在は、「証人」ともいい、毛利氏から徳川氏への忠誠を証す「人質」としての役割も果たしていました。

 

徳川家康や秀忠の側近くに赴き、頻繁に彼らと接するわけですから、失態は許されません。秀就にも、譜代家臣の重鎮である福原広俊や、一門の有力者で、一度は輝元の養子にもされたことのある毛利秀元ら、しかるべき人物が補佐役として添えられました。

 

秀就の父輝元は、秀元に、かつて若年の自分を補佐した吉川元春・小早川隆景の「両川」のような役割を期待していたようです。しかし、田中誠二氏によると、秀元は、福原広俊や、秀就の守り役であった児玉景唯らと対立し、やがては秀就自身とも対立に及んだとのことです。

 

江戸初期における長州藩の混乱において、毛利秀元は重要な役割を果たしていました。しかし彼が何故に長州藩の首脳と争ったのか、確たる見解は、まだ示されてはいないようです。