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第297回

2016.06.10

st毛利家160610毛利秀就像

写真は、長州(萩)藩の初代藩主とされる毛利秀就の肖像画です。

 
秀就は、文禄四年(一五九五)、毛利輝元の長男として生まれました。輝元と正室宍戸氏との間に、子どもは生まれませんでした。秀就は、側室二の丸との間に生まれた、待望の長男でした。輝元は、四十歳を過ぎて生まれた長男に大きく期待したのでしょう、偉大な祖父元就と同じく、幼名を「松寿丸」と名付けました。

 

豊臣政権との交渉過程で、輝元は叔父毛利元清の長男で、従兄弟にあたる秀元を養子に迎えていました。しかし秀元は、秀就の誕生とともに、家督継承を辞退します。それは、養子入りの際、輝元に実子が誕生したならば、しかるべき所領が給与されることと引き替えに、家督相続を辞退するとの一札を入れていたからです。

 

その後、紆余曲折を経て秀元は、長門一国余を与えられ、分家として一家を立てます。防長移封後は、豊浦郡一帯を与えられ、支藩長府藩の祖となることはよく知られています。

 

江戸時代に入ると、幕府の課役をめぐって、長府藩と本藩は対立します。本藩は、幕府から課せられた課役を、直轄領から負担するだけでなく、適宜按分して支藩や家臣に賦課するのですが、長府藩がその分担を拒否したのです。長府藩の主張は、秀元の所領はそもそも、毛利家の家督を継いだ秀元の隠居領だというものでした。そして、当時の慣習に従い、隠居領の課役は免除すべきだと主張したのです。

 

本藩は、秀元の養子縁組とその解消に関わる証拠書類を持ち出し、秀元は家督を継いでいないことを証明します。しかし、長府藩側もあれこれと新たな手を打ったため、この対立は長引き、秀就の存命中に解決することはできませんでした。藩政初期の毛利家にとって、本支藩の激しい対立は、一国の存亡にも関わる重大な問題として、藩首脳を悩ませ続けたのです。