山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第295回

2016.05.27

16550011(雲龍蒔絵鞍鐙・2016端午・ほっぷ295)

写真は、馬に乗るための鞍と鐙です。全体を黒漆で塗り固め、所々扇状に漆を盛り上げて扇面とし、その中に金銀の高蒔絵で、めでたい動物である鶴亀や、立身出世の象徴とされる鯉や龍を描く、なかなかに意匠にも凝った、見事な出来栄えの鞍鐙です。

 
それもそのはず、この鞍鐙は、長州(萩)藩主毛利敬親が、弘化三年(一八四六)四月に幕府から拝領したものでした。『もりのしげり』によれば、「藩政治績良好ヲ以テ」与えられたものだそうですが、具体的な内容については、よくわかっていません。

 
田中誠二氏によると、この時期の長州藩は、天保十一年(一八四〇)から本格化した財政改革、とりわけ目玉となる「公内借捌(こうないしゃくさばき)」によって、藩の借銀は減少し、家臣団の借銀も削減できたといいます。これにより、藩借銀返済のための家臣知行の召し上げと、領民への年貢上乗せである「馳走米(ちそうまい)」も、かなり軽減できたそうですから、確かにこの時期、敬親の治政が「良好」であったことは間違いないようです。

 

また、鞍鐙拝領の翌弘化四年(一八四七)十二月、敬親は左近衛権少将に任じられています。十代藩主斉煕以来、四代続けて「少将成」を遂げたのは、初代秀就・七代重就以外、少将への昇進を果たせなかった毛利家としては、快挙でした。しかも敬親は年若く、本来であれば少将成できるだけの実績を持ち合わせていなかったようです。これは田中氏によると、敬親の義父十二代藩主斉広(なりとお)が、将軍の聟であった点が考慮されたのだということです。

 

敬親の鞍鐙拝領が、藩政の実績を評価されたものなのか、将軍との縁戚が重視されたのか、それとも別の理由か、現段階では明らかにできません。理由や背景の如何では、歴史的な評価を、大きく変えざるを得ませんが、いずれにしても、この時期の幕府と長州藩の関係がきわめて良好であった、ということだけは間違いないようです。