山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第294回

2016.05.20

06130007(刀筒・2016端午・ほっぷ294) 写真は、「刀筒(かたなづつ)」とよばれる容器を拡大したものです。刀筒とは、大名などが移動の際、刀を収めて運搬するための木製の筒で、鐔(つば)などの刀装具を装着したまま運搬するためか、胴の真ん中が膨らんだ、少し変わった形の容器です。

 
この刀筒の所用者は不明です。ただ、総体を金梨地の蒔絵とし、所々に毛利家の家紋である「沢瀉(おもだか)」を、銀で散らした、かなり豪華な作りですから、毛利家の当主か、それに近い親族の持ち物であったと思われます。

 

毛利家の家紋とされた「沢瀉」は、かつてはどこの水辺にも咲いていた、ありふれた草花です。この野辺の花を毛利家の家紋としたのは、毛利元就だとする伝承があります。ある戦場に赴いた元就は、「勝草」ともよばれていた沢瀉が、道端に咲いているのを見つけて、勝利を確信し、実際に勝利を得たことから、この花を家紋にしたというのです。

 

しかし、現在、確実な元就の遺品に、沢瀉を意匠に取り入れたものはありません。沢瀉をデザインに取り込んだ遺品が残されているのは、早くても孫の輝元まで下るようです。沢瀉が使われたという輝元の遺品は、残念ながらまだ実見していませんが、その子で長州(萩)藩の初代藩主となった秀就の時代になると、「沢瀉」を家紋として使用した例が増えるようです。

 

遺品を見る限り、江戸時代、家紋として沢瀉を使用していたのは、江戸時代に長州藩主の親族として「御支封様」とか「末家」とよばれた、長府・徳山・清末の三支藩主と、その時々の藩主の庶子のみだったようです。彼らはいずれも、藩祖である輝元の子と養子の子孫でした。

 

「沢瀉」という家紋は、これら藩主係累と、「一門」とはいえ家臣に位置づけられた元就の子孫や、それ以前に宗家から別れた一族との差を、見た目にも明らかにする重要な意匠だったと考えられます。その始まりを元就、とする伝承だと、辻褄の合わないことが多いようです。