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第293回

2016.05.13

mt毛利家0513軍幟2016端午

写真は、毛利元就が用いたとされる旗です。もとは長かったようですが、下部が失われたようです。上端を紺色の革で補強し、竿竹に結びつけられるようになっていますので、いわゆる流旗(ながればた)として用いられたのでしょう。

 
綸子(りんず)の生地に、黒々とした墨で、軍神名と、毛利家の家紋「一に三つ星」を記しています。家紋は、江戸期以降の整ったものでなく、稚拙で古様です。元就時代の特徴を示す要素がいくつかあることから、元就の所用とする伝承には誤りないと考えられています。
よく見ると、絹には地文様として、亀甲繋ぎの文様が織り表されています。これは厳島神社の神文とされ、この旗は、同社から下された御衣(おんぞ)を用いて作られたとされます。

 
平氏一族の尊崇により、安芸国(現在の広島県西部)最有力の神社となった厳島神社は、毛利氏にとっても、特別な意味を持つ神社でした。元就が、厳島に攻め込んだ陶晴賢を破り、戦国大名への飛躍を遂げたことは、よく知られています。元就が厳島を占領できたのは、神社の最有力神職である棚守房顕(たなもりふさあき)が、いち早く元就に味方していたためでした。

 

岸田裕之氏によると、房顕が、元就の御師(おし)となり、信仰上の関係を取り結ぶのは、元就が頭角を現すきっかけとなった、郡山合戦の時からだそうです。以後房顕は、元就の援助の下、神社内での地位を高めるとともに、戦乱で荒廃していた社殿や祭礼の復興に努めたとされます。房顕もまた、ことあるごとに元就に厳島神の加護を与え、元就の戦勝を祈願しました。加えて、宗教的な権威が圧倒的であった中世社会において、国内で最も権威ある神社を外護(げご)し、その加護を受けることは、正当な領国主として認知されたことを示し、毛利氏が国人領主から戦国大名に脱皮する上で、たいへん重要な意味を有していたのです。

 

この旗は、単なる軍旗ではなく、元就と厳島神社との関係を今に伝える重要な証拠なのです。