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第292回

2016.05.06

nt毛利家160506_刀絵図_骨喰

写真は、「刀絵図」です。押形(おしがた)とよばれる刀の型紙を貼り合わせ、名刀の見本集として作られたものです。全長二十六メートル、名工として知られた五十一人の作刀を集めた、まさに古今の名刀目録として、重要文化財に指定されています。

 

奥書から、文禄三年(一五九四)毛利輝元の求めに応じ、本阿弥光徳が作成したものと分かります。本阿弥光徳は、豊臣秀吉の蔵刀を管理していた人物ですから、この巻物は、秀吉の蔵刀目録としての側面も有し、歴史的にも貴重とされています。

 

奥書から、輝元の求めであったことはまちがいないようです。光徳が独断で秀吉蔵刀の押形を作成し、秀吉家臣に渡すとは思えませんから、秀吉裁可の下で作成されたと考えるのが自然です。毛利氏の実力に期待し、輝元に対して、始終好意的であった秀吉のことですから、輝元の求めに、秀吉が心やすく応えた、というところなのでしょう。

 

では、輝元はいったいなぜこの「刀絵図」を所望したのでしょうか。輝元は鼓をよくしたとされますが、決して能楽や舞などの芸事に、のめり込む人物ではありませんでした。刀剣に関しても、武人ですから、一通りの知識や興味はあったと思われますが、秀吉や徳川家康のように、古今の名刀にまつわる逸話は、耳にしたことがありません。

 

この「刀絵図」は、押形の各所に、刀剣の見どころが具体的に注記されています。またこの巻物には「銘鑑」と題された、作者ごとの特徴が記された冊子も付属しています。おそらくは、上方で大名衆と頻繁に交渉するようになった輝元にとって、社交上、刀剣に関する知識を備えておくことが重要になったのでしょう。輝元は、祖父元就の影響を強く受けたせいか、趣味の世界にのめり込むことはありませんでした。その輝元が、太閤蔵刀の名品集を所望した、という、一見矛盾する事実を、整合的に理解するには、このように考えざるを得ません。