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第291回

2016.04.29

nt毛利家160429_唐物文琳茶入_宇都良

写真は、茶の湯で抹茶を入れる茶入(ちゃいれ)です。小ぶりのかわいらしさが特徴でしょうか。中国大陸からもたらされましたが、形がりんごに似ていることから、りんごの異名である「文琳(ぶんりん)」と呼ばれ、唐物茶入のうちでも最上位に位置づけられるそうです。

 

この茶入には、「宇都良(うずら)」という銘が付けられています。それは、有栖川幟仁(たかひと)親王の命名によると思われ、命名にまつわる親王自筆の書が添えられています。

 

有栖川宮家といえば、皇女和宮との縁組が破談となり、のちに東征大総督として和宮の住む江戸攻撃の総司令官となった、いわば悲劇の人物として物語中で語られることの多い、熾仁(たるひと)親王が著名ですが、幟仁親王はその父宮にあたる人物です。

 

毛利家と有栖川宮家とは、長州(萩)藩の七代藩主毛利重就(しげたか)の外孫、すなわち鷹司輔平に嫁いだ二女惟保君の娘が幟仁親王の祖父織仁親王に嫁いで以降、縁戚としての交際が始まったようです。さらに、織仁親王の娘であった栄宮(はるのみや)が、重就の嫡孫にして、九代藩主となっていた斉房の許に嫁ぐことで、両家の縁は、さらに深くなったようです。斉房は若くして亡くなりますが、栄宮は斉房の死後落飾して貞操院と名乗り、敬親時代の嘉永五年(一八五二)まで長命を保ちました。

 

嘉永元年(一八四八)には、敬親自ら有栖川宮邸に赴き、そこで催された茶会で薄茶を点てたことが、記録に残されています。貞操院の仲立ちによるものでしょうか、敬親の時代にもなお、毛利家と有栖川宮家は、縁戚として親しく交流していたようです。

 

幕末動乱の時代、幟仁・熾仁両親王は、禁門の変において長州側の有力皇族として活動したため、厳しい処分を受けたといいます。彼らの親長州としての活動は、こうした姻戚関係が、一つの背景をなすことはまちがいないようですが、詳しくはまだわかっていないようです。