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第290回

2016.04.22


st毛利家160422一松

 

写真は、千利休が毛利輝元に贈ったとされる竹の茶杓(ちゃしゃく)です。「一松」という銘が付けられ、毛利家伝来の茶道具のうちでも、最も著名なものの一つです。

 
蟻腰(ありごし)・中節(なかぶし)の典型的な利休型の茶杓とされ、深い樋と、薄く掛けられた漆に特徴が見られるといいます。利休や輝元の時代、茶杓は、茶会ごとに亭主が心を込めて自作し、茶会の記念に主たる客に贈られたといいます。この茶杓も、おそらくは、利休が茶会に招いた輝元に、記念として贈ったものであろうと想像されます。

 

主として西国に勢力をもつ輝元と、堺の商人出身の利休との間に交流が生じたのは、輝元が豊臣秀吉に臣従した後だと思われます。輝元は豊臣政権下の重要な大名として度々上洛していますので、この茶杓が贈られたのも、そうした時だったのでしょう。

 

輝元が、初めて秀吉の臣下として上洛したのは、天正十六年(一五八八)のことでした。すでに天正十四年(一五八六)には東国の上杉景勝・徳川家康が上洛を遂げていましたので、遅れること二年もの開きがありました。

 

信長の死後いち早く秀吉と和睦した輝元でしたが、秀吉の九州平定に駆り出され、緒戦の北部九州確保、日向口への進撃では、秀吉勢の主力となっていました。さらに平定後もなお、秀吉の強圧的な支配に抵抗する国人一揆鎮圧のため、輝元や小早川隆景ら毛利氏の主力は、黒田孝高ら秀吉子飼いの大名たちとともに、九州各地を転戦し続けていたのです。そのため、輝元の上洛、秀吉への拝謁は、他の有力大名にくらべ、著しく遅れました。

 

大幅に遅参した輝元ですが、事情が事情だけに、秀吉は他の大名以上に輝元を歓待したようです。西国支配における毛利氏の役割をそれだけ重要なものと考えていたのです。この利休の茶杓もまた、こうした豊臣氏の輝元に対する期待を今に伝えているのでしょう。